日本映画批評家大賞

第22回受賞作品



特別賞 高濱 裕
株式会社アイ・ヴィー・シー代表取締役 高濱 裕

創始者で長年、社長を務めた黒田征人が1988年9月に設立。
ビデオソフト、レーザーディスクの企画、製作、配給業務を開始する。
93年映画評論家の淀川長治氏の総監修による
<映画誕生100年記念特別企画「世界クラシック名画撰集」>の発売を開始。
図書館、学校を始めとする公共機関での上映が出来る映画ソフトの発売も行うことに。
1955年にはテレビ東京をキー局としてIVCのスポンサーで
「淀川長治映画の部屋」の放映を開始する。
98年には日仏の文化交流「日本におけるフランス年98 - 99年」に参加して
「IVCフランス映画祭」を主催する。「ロシア映画DVDコレクション」
「プーシキン美術館DVD-BOX」「淀川長治クラシック名作解説全集」
ソビエトの大作「戦争と平和」ヴェルナー・ファスビンダーの大作
「ベルリン・アレクサンダー広場」アンドレイ・タルコフスキー監督の
「惑星ソラリス」名作としては「恋人たち」「好奇心」「オルフェ」
「外人部隊」「北ホテル」「禁じられた遊び」、等を発売。
また劇場配給としてスタンリー・キューブリック監督の初監督作品
「恐怖と欲望」を公開した。
今発売されたリストを改めて見てみるといずれも映画ファンならば
一度は見ておかなければならないヨーロッパやハリウッドの作品が目白押しである。
主な作品をあげてみると「アンナ・カレーニナ」「現金に手を出すな」「審判」
「甘い生活」「汚れなき悪戯」「恋人たち」「危険な関係」「召使」
「国民の創世」「血と砂」「モロッコ」「若草物語」等々。
またボックス物としては「フレッド・アステア・シャル・ウィー・ダンス」
「ハリウッドの巨匠ジョン・フォード」「アメリカの巨匠オーソン・ウェルズ」
「チャールズ・チャップリン」「バスター・キートン」「黄金のサイレント女優」
「アルフレッド・ヒッチコック・ボックス」「セルゲイ・エイゼンシュテイン・ボックス」等々、
まさに世界の映画史を見るような物ばかりがずらりと並んでいて壮観である。

特別賞 富士フイルム株式会社
富士フイルム株式会社

1893年、エジソンが映画を発明して以来、映画製作にかかわる技術や“モノ“を
日本が輸入に頼らざるを得なかったのは当然のことだ。
列強大国が戦争で自国の領土拡大に躍起になっていた時代、
日本自らが映画用フィルムを開発せねばならないというのは明白なことだった。
そんな時代の要請に応えるべく、
富士写真フイルム株式会社は1934年に創設された。
同社が映画用カラー・フィルムの現像実験に着手するのは1943年。
8年後、「フジカラー」(三層式発色フィルム/外型現像/ポジ・ポジ反転方式)、
日本初の「総天然色」による長篇劇映画「カルメン故郷に帰る」
(松竹・監督:木下恵介)を送り出し、
日本映画界に前人未到の金字塔を打ち建てた。
しかし、残念ながらコストの問題からその技術の普及は
十分とは言い難い結果に終わる。
1950年代後半にドイツのアグファ社の日本における
カラー・ネガ製造の特許期間が終了して、
ようやく同社は「フジカラーネガティブフィルム#8512」を用い、
「楢山節考」(1958年、松竹・監督:木下恵介)において優れた発色で成功を収めた。
「カルメン故郷に帰る」に続く、第二の記念碑だ。
かつて技術大国日本と呼ばれたころの代表格、富士フイルム。
その実験精神を尊び《国産カラー》を早々と受け入れた
木下恵介監督の慧眼にも頭が下がる。
そして“フジカラー”は1960年代東映作品でその色調を一般に印象づけた。
微妙に青みがかったその色は“東映カラー”と称されることもあった。
映画業界における技術革新はあらゆる分野に及び、
ついに同社は公式HPで今年3月をもって
撮影用/上映用映画フィルムの生産を終了したと発表した。
世界的な潮流としてデジタル化が急速に進行する中、同社の企業努力は続く。
これまで以上に映画業界の発展に貢献するため
映画製作のデジタル化に合わせた製品として、
長期保存に適したデジタルセパレーション用
黒白レコーディングフィルム「ETERNA-RDS」、
デジタル映像制作用色管理システム「IS-100」、
デジタル撮影/上映用の高性能レンズなどを提供していくという。
フィルムの歴史が一つの区切りを迎えた今この時に、
我々、日本映画批評家大賞は同社に特別賞を差し上げることになった。
おこがましい限りではあるが、この賞がまさに血のにじむような努力で
国産映画用フィルムを開発し続けた同社の歴史を振り返り、
映画界に残した多大な功績を称え、さらに引き続き業界の発展に
ご尽力をされるその姿勢を伝える役割の一助になれば幸いである。

ダイヤモンド大賞(淀川長治賞) 小林 旭
小林 旭

父上が映画関係者であったせいか、この人も芸能界入りは早かった。
4歳で劇団東童に入り、小学1年生の時に
劇団公演『青い鳥』のチルチル役で初舞台をふむ。
 高校在学中に映画製作を再開した日活のプロデューサーと知り合い、
エキストラとして撮影所へ出入りし、高校卒業後日活第3期ニューフェイスに合格。
年上の二谷英明も同期生だった。
同じ年(56年)に本名を芸名にして『飢える魂』(川島雄三監督)で
本格的にデビューしたものの、
折りからの太陽族ブームで鳴り物入りで入社してきた石原裕次郎の活躍を、
横で眺める日々もしばらくの間は味合わなければならなかった。
 しかしこの時代の代表作として浅丘ルリ子と共演した
『絶唱』(58年滝沢英輔監督)を忘れてはならない。
山に暮らす素朴な若い男女の哀しくも美しい恋物語だった。
『南国土佐を後にして』(59年斎藤武市監督)も大ヒット。
浅丘との人気コンビがこのあたりから定着していった。
 その後男性映画路線を敷いた日活はタフガイ裕次郎とマイトガイ旭を2枚看板にし、
『銀座旋風児シリーズ』『渡り鳥シリーズ』で小林旭の人気も鰻のぼり。
58年にはコロムビアレコードと専属契約して劇中で歌った歌も大ヒット。
日活を退社してからも東映の『仁義なき戦い』シリーズなどで
凄みのあるやくざ役を貫禄たっぷりで演じ、歌手としても
ハリのある独特の美声の“アキラ節”で『ダンチョネ節』『ズンドコ節』とヒットを飛ばし、
『熱き心に』や『昔の名前で出ています』も大ヒット。
全国各地でのコンサートも大人気で、
今年6月には名コンビ・浅丘ルリ子と共演の舞台も予定されている。

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